第2回:レーモン・クノー『オディール』
「僕は、今でも時折、彼らとともにテーブルについている自分の姿を見ることがある。しかしそれは、彼らのことはどうでもよくなった今となっては、だんだんに消えていく光景だ。そして確かに、僕はもうその夜何が話されたか思い出せない。アングラレスの家での最初の夜の記憶は、筋も対話もある物語として、ここに述べたように粉飾を施せるほどはっきりと僕のなかに描かれて残っているのだが。(中略)これらの人々が生きていたということ、そして僕自身もまた生きていたのだということ。僕はどうそれを否定できよう。彼らのしたことはすべて、今の僕にとっては、下手な演技だったとしか思えない。」
『オディール』は、『文体練習』『地下鉄のザジ』などで知られる作家レーモン・クノー初期の恋愛小説であると同時に、シュルレアリスムへの参加と決別を描いた自伝的小説としても知られる。上の引用部分は、そのシュルレアリスムの一派たちが集まる会合に「僕」が参加しはじめたときの描写に続く箇所だ。もちろん「僕」はレーモン・クノー本人を、そして「アングラレス」はシュルレアリスムの「父」、アンドレ・ブルトンをモデルとしている。
1919年、ブルトンは眠りにつく直前の半睡状態で、不思議な言葉とイメージが喚起するのを体験した。それからその半睡状態のような、ぼくたちが意識して生きているこの現実を超えていく瞬間を捉えようと色々と実験を試みたのが、シュルレアリスム=超現実主義のはじまりである。そのうちブルトンが最初にたどり着いたその実験的な方法がオートマティスム(自動筆記)だ。一方、美術の分野では、マックス・エルンストなどが試みたコラージュやフロッタージュ、デカルコマニーや、デュシャンのレディ・メイドに代表されるデペイズマン的な手法が生み出された。それらはすべて自分の主観や意識から離れていくことによって、現実を内包しつつそれを超えるものに触れるための方法であって、1924年にブルトンがオートマティスムによる物語集「溶ける魚」の序文として記した「シュルレアリスム宣言」をシンボルとして、一派がひとつの運動を形づくっていった。のちにこの「シュルレアリスム宣言」を「第一宣言」として、「第二宣言」「第三宣言か否かの序」が書かれると、『シュールレアリスム宣言集』のような形でまとめられることになる。
ゆえにブルトンはシュルレアリスムの「父」と呼ばれ、彼らの中で強力な地位を築いていた。その影響力は仲間である詩人や美術家を次々とシュルレアリスムから「除名」することができるほどであり、そのやり方に反発して自ら去っていく者もいた。結果的には、シュルレアリスムを創始したメンバー、および現在シュルレアリスムの作家として一般に認知されている作家のほとんどは、ブルトンの元を離れていくこととなる。また、徐々に政治性を帯びていき共産党と関わりをもつようになっていったことも、運動が終焉に向かう一因であった。しかしブルトン本人は、死を迎えるまでシュルレアリストであることを貫き通した。
冒頭引用部の「僕」(クノー)は、友人サクセル(ルイ・アラゴンがモデルであるとされている)に誘われてアングラレス(ブルトン)の家で行われていた会合に出向き仲間として迎え入れられるのだが、その「僕」の登場を、アングラレスはおそらくオートマティスム的な手法で、二週間前に書いた書面という形で「予知」していた、というエピソードから「僕」の一派へのゆるやかな参加がはじまる。それ以降『オディール』の中で彼ら一派は終始どこか「疑わしいもの」として描かれているのだが、実際のクノーは決別当初こそ敵意をあらわにしていたものの、後年にはあらゆる分野におけるシュルレアリスムの影響の重要性を認めている。またブルトンとも互いに後年の仕事を評価し合っており、事実上の和解に至っている。
ブルトンが遺した代表作のひとつである『ナジャ』は1928年に出版された自伝的な小説である。ブルトンが描いた「ナジャ」と名乗る女性、そして歩き回るパリの町並みは、『オディール』と比較して読むことで一層の広がりを持つ。『ナジャ』のすべて謎を含む暗号のように散りばめられたパリと、『オディール』のごく日常的に路上にあふれる雑多なパリ。そしてブルトンとクノーがそれぞれ魅きつけられた女性としての「ナジャ」と「オディール」。それらはひどく対照的であるが、どちらもしかし見事なまでに美しい。(文・内沼晋太郎)
レーモン・クノー『オディール』(月曜社)
<関連書籍>
アンドレ・ブルトン『ナジャ』(現代思潮新社)
アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』(現代思潮新社)
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