第1回:金子光晴『ねむれ巴里』
「騙されているのは、フランス人じしんもおなしことで、騙している張本は、トゥル・エッフェルや、シャンゼリゼや、サクレ・キュールや、セーヌ河で、そんな二束三文な玩具を、観光客は、目から心にしまって、じぶんもいっしょの世界に生きている一人だったと安心するのである。
――そんな手に乗ってやらないぞ。
と、しみったれたエトランジェの一人の僕は、パリを横目でにらむことを早くも身につけた。足をふみ入れた最初から、パリが僕をよくおもわないで、早速追出しにかかっていることがうすうすわかっていたからであろう。」
(「泥手・泥足」)
詩集『こがね蟲』で、金子光晴が詩壇に認められたかと思った1923年11月、関東大震災は無残にも起こった。海外放浪三部作の第一作である『どくろ杯』は、この震災が起こったところからはじまる。その後妻となる森三千代と出会い、1928年から32年までの約5年間、彼らは一緒に旅をすることとなった。『ねむれ巴里』はその第二作にあたり、上に引いた箇所は、自分より先にパリに送っていた三千代と再会し、数日たった後に、この街に住むことについて考えをめぐらせているところだ。
光晴と三千代との東南アジア・ヨーロッパの旅は、ふつうに考えれば本当に悲惨なまでの貧乏旅行であった。時代は世界大恐慌の真っ只中、ましてや就労許可のない、言葉の通じない外国人にまともな仕事などあるはずもなく、少しでも金になりそうな危ない仕事を転々としながら、「エトランジェ」すなわち異邦人として、彼らは逃げ隠れるようにして過ごした。
とくに光晴にとってこの『ねむれ巴里』で描かれたパリは、特別に「淫蕩」で「汚辱」な都市であった。そしてそういう場所にいた時間こそが彼の思索の糧となっていった。「パリが僕をよくおもわないで、早速追出しにかかっている」というような感覚は、この後のパリ滞在で自分達と同じようなギリギリの人間たちと数多く出会い、彼らの悲惨な姿を目にすることで一層、その強度を増していく。
しかしこの旅がなかったとしたら、金子光晴という詩人は、いまこのような名声を残して文学史上に存在していないかもしれない。帰国後に出版された代表作『鮫』はのちに「抵抗詩集」と呼ばれるが、彼のそのアナーキズムが、異国の中のさらに最底辺という、考えうる最も社会的に過酷な条件に旅したことが根となっているだろうことは、彼の遺したことばを読めばすぐにわかることだ。
ところで『ねむれ巴里』では、この引用部で初めて「トゥル・エッフェル」と、エッフェル塔(仏:La tour Eiffel)のことが出てくる。「パリで塔を見ないですむ唯一の場所だから」エッフェル塔の下のレストランによく通ったという、モーパッサンの有名な皮肉から、ロラン・バルトによるエッフェル塔論『エッフェル塔』は書き出されるが、パリという街に「騙され」まいとしている彼の眼は、エッフェル塔の建設によってパリが損なわれると考え批判していた知識人たちがおそれていたことのひとつを、鋭く発見して「そんな手には乗ってやらないぞ」と言っている。もちろん光晴がこのとき「トゥル・エッフェル」を批判していたわけではないけれど、エッフェル塔が象徴するパリの街を貫く暴挙と、のちに光晴が『鮫』で批判する日本の帝国主義的な統制とは、どこか重なる。
光晴がこのとき眼を向けたパリは、それから十五年が経過した1954年から55年にかけて、木村伊兵衛によって撮影された。その写真集が『木村伊兵衛のパリ』であるが、その間にパリは、ナチス・ドイツによる占領も経験している。光晴が体験したのが底辺の生活だったせいもあるが、それと比べれば木村の写真は歴然と、幸せな雰囲気にあふれている。パリはこの戦争を境にいったいどのように変わったのだろう、そして日本は、と、想像も膨らむ。
光晴のように旅をすることは、今も昔もまったく簡単なことではない。けれども本を読めば、追体験することはできる。光晴のこの三部作は、晩年、旅をしてから実に四十年が経過してからの、丸六年にわたる大仕事だった。そして三作目の『西ひがし』が出版された翌年、帰らぬ人となった。これほどの大著になることは本人も予想もしていなかったようだが、それだけの旅が、ここにはある。(文・内沼晋太郎)
金子光晴『ねむれ巴里』(中央公論新社)
<関連書籍>
ロラン・バルト『エッフェル塔』(みすず書房)
木村伊兵衛『木村伊兵衛のパリ』(朝日新聞社)
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