第4回:近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』
夫人が今でも強い口調で憤りを示すのは、「日本を捨てた」と、言われたことに対してであった。
「藤田は日本に捨てられたのです」
戦中戦後と藤田のそばを片時も離れなかった夫人に、藤田は何度も「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」と語っていたという。
藤田は画壇の人々には何も語らず機上の人となった。そしてその後、祖国日本の土を踏むことは二度となかった。
パリで最も有名な日本人は「フジタ」だという。少なくとも、1920年代のパリでは間違いなくそうだった。美術界でも社交界でも大変有名で、当時パリを訪れた女優・長岡輝子によれば「タクシーに乗る度に運転手が、客が日本人と知るや『フジタを知ってるかい』と問いかけて」きたのだという。その「フジタ」こそがレオナール・フジタこと、画家・藤田嗣治である。
藤田は1886年、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。子どものころから絵を描くのが好きで、画家としてフランスに留学したいと希望していたという。1905年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学したものの、当時日本のいわゆる洋画は黒田清輝らの影響力が強く、黒田の師であったラファエル・コランの外光派と呼ばれる印象派絵画が大きな一派を成しており、その偏った美術指導に馴染むことができず、友人たちと遊んですごした。卒業後も精力的に展覧会などに出品したが、黒田の勢力が支配的であった文展などでは全て落選し、日本での画家としての将来がまったく見えなかったため、ついに意を決してパリに渡る。既にパリではキュビズムや素朴派、シュルレアリスムといった新しい運動が誕生しつつある一方、渡仏後すぐに第一次世界大戦の波に巻き込まれ貧窮を極めたが、終戦とともに徐々に評価を高め、一躍パリで絶賛されるまでになったのである。
その後も各国で評価を高め、日本国内でも冷淡な美術界とは裏腹に多くの人の評価を得るようになった。しかし第二次世界大戦が勃発し戦争画の製作を手がけると、敗戦後の1949年、この戦争協力を罪として、まるで画壇の生贄のように批判されるようになった。結局、GHQの戦争犯罪者のリストに藤田の名が並ぶことはなかったが、「この恐ろしい危機に接して、わが国のため、祖国のため子孫のために戦わぬものがあったろうか」と後の手記に記しているように、画家として正しいことをしたという思いを誰にも告げぬまま再び日本を去り、二度と戻ることはなかった。そうして日本の画壇で正当に評価されることなく、日本へのやりきれない思いを抱えたまま、この世を去った。
本書『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』は、死後ずっと謎と誤解に包まれてきた藤田の生涯を、ずっと慎重な態度をとり続けてきた著作権継承者である夫人への長年の交渉を経て、やっと得られた協力のもとはじめて公開された手記などを元に書かれた、本格的な自伝である。著者である近藤史人氏はテレビ番組のディレクターであり、藤田の生涯を撮ったドキュメンタリー番組を企画、制作し、それによって伝えきれなかったディティールを本書に記し、第34回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
またほぼ同時に、没後35年にして初めて出版された本格的な作品集が『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』だ。初期から晩年まで、時代順に代表作約160点を収録されている。この2冊の出版、そして大規模な回顧展の開催によって初めて、多くの日本人にこの数奇な運命をたどった画家の全貌が、広く知られることになったのである。(文・内沼晋太郎)
近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』(講談社)
<関連書籍>
『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(講談社)
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